効果的なアウトプットの方法とそのライフサイクルについて

アウトプットを良質で効果のあるものにするためには何を成せば良いのか。
多くの人々はアウトプットの重要性を認識しているが、その本質を見極め実行できる人間は限られている。
自分も読書という娯楽が果たして意味を為さないという可能性を知りつつもついその娯楽を楽しんでいたりする。
自分が思う"アウトプット"というものを整理するためにエントリを挙げる。

情報の収集と拡散

本題に入るが、知的生産系の本を読んで得た知識を自分なりの覗き窓で再構築するとまず押さえておかないコアがある。

  • インプットとアウトプットのプロセスサイクル

だ。この二つは深く密接な関わりがある。
そしてアウトプットという行為は最終過程で「予想した他人の意思がねじ曲がる」とい非常にスリリングな要素をはらんでいる。

以前twitterでRT・ふぁぼられを狙って呟いた事があった。

業務で新しいタスクに触れる時に一番大事なのは判断力だと思う。誰に何を聞く必要があるのか、それはメールで済むのか、電話をした方が良いのか、会いに行く必要があるのか。聞いた瞬間にそれらを判断し、話が終わった時には既に実行に移せるレベルまで脳味噌で咀嚼しておかないとプロフェッショナルとして失格だと思う。-6月30日 SOICHA

これは自分の中では仕事をして行く上でかなりコアな部分を突いたつもりであったが、果たしてこれはRTされることもふぁぼられることもなく深淵なログの海へと流れて行った。
アウトプットは再現性を高める程、すなわちドキュメント化するほど自分の手を離れた人の意思が介在して行く。
他者の歴史と経験を自分でフィルタをかけて取り込む時と同様だ。
それ故インプットとアウトプットでは、他者をどこまで意識するかというのが非常に重要なファクターの一つとなる。
他者にインプットされてこそ本当に意味でのアウトプットであるという側面を持っておりそれがアウトプットの質の善し悪しを決めている。
僕の呟きは他者の目に触れている時点で無意味な藻屑となった訳ではないが、他者に届いて何かしらのフィードバックが得られてこそ初めて「成功したアウトプット」となり得る。
以上の様な前提を踏まえ、自分の思考を整理してまとめていく。

知性の構造 (ハルキ文庫)

知性の構造 (ハルキ文庫)

一般人として最低限必要な情報収集能力

良質なインプットが無ければ効果的なアウトプットは生まれない。
アウトプットの質が高い人を観察すると全てと言って良い程彼らは日常的に良質な情報を収集している。
彼らに追いつこうとしても純然たるインプットの量と質にあまりにも大きな差があるため、到底置いていかれてしまうというのが真実だ。
インプットという行為にどれほどの差があるのか。まずは下の図を見て欲しい。

静的なコンテンツ(本・メディア)を受動的に受け入れる行為、(例えば目的も無く見るテレビや雑誌などがそれに当たる)にはインプットとしての価値は無い。
同様に受動的に他人から話を聞くという行為もインプットとしてほとんど価値を為さないと言って良い。*1
インプットとして価値が産まれてくるのは図の右側から左側へ、自発的に情報を取りに行くフェーズである。
情報に対して受動的か能動的かというアンテナを張ることで、良質なインプットを得られる可能性が一気に拡散する。
それはつまり他者が保有している経験と歴史であり、公開されていないほど情報としての価値があると考える。
それ故究極のインプットとは人から得る経験であり、人から聞く情報であり、人そのものである。

良質なインプットのコア

ここがインプットのコアとなる。

  • 究極のインプットは能動的に人から直接得るもの意外の何者でもない

大きな枠組みでインプットというものを定義した場合*2、コアを為すのは人であり人脈なのである。
良質なアウトプットを日々量産している人とどれだけ近い関係にあるか、それがインプットの全てを決めるのである。

知的生活の方法 (講談社現代新書)

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情報の公開性と秘匿性

インプットとアウトプットは表裏一体、というよりも一つのライフサイクルであると言える。
効果的なアウトプットとは公開することが必要条件である。
その本質としては僕はアウトプットはフィードバックが無ければ全くの無意味だと考えている。
下の図を見て欲しい。

今述べた様に、自己のアウトプットとは公開されて初めて価値が生まれるものである。
なぜならば最初に述べた通り、フィードバックとして次の自分へのインプットへ繋がらなければ意味が無い。
僕の中でのイメージとしては、インプットとアウトプットをスパイラルさせて短期間にプロセスを回して行くことだと思っている。*3
そうした見解の上で「他者視点」と「自己視点」という観点を加えたのが上の図である。
注意すべきは自己視点が無意味ということではなく、他者にとって良質なインプットとするためには他者視点が必要になってくるという側面である。
僕の様な一般人が価値あるアウトプット、すなわち他者にとって良質なインプットを創り出すためには他者を想像していかなければならない。
人を惹き付ける情報をアウトプットし、それをライフサイクルとして次のインプットを引っ張ってくるには並大抵のことでは敵わないということだ。
個人の経験値を加工して提供するという方法もあるが、その行為が自分よりも上の次元ある情報を引っ張って来れるかと言えば甚だ疑わしい。
そんなものはインターネットの藻屑となるより他なく、その点についての思考を行っておかなければ単なるアウトプット、図で言えば右上(自己視点・公開性)のであろうともいっこうに左へ進んで行くことはできないだろう。
「おなかへった!」「ねむい!」とツイートを繰り返すフォロワーは、余程の著名人でなければ馬鹿である可能性が高い。

効果的なアウトプット

まとめると下記の通りである。

  • 効果的なアウトプットとはプロセスとしてさらに良質なインプットを持って来れるもの
  • 良質なインプットを引っ張ってくるためには、公開性のレベルを可能な限り引き上げ大衆の目に触れる様セッティングした上で、他者の存在を意識したアウトプットを行うこと

発信力 頭のいい人のサバイバル術 (文春新書)

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*1:ここで言う受動的とは姿勢の問題であり、講演会でオーディエンスとして思考しながら話を聞く事は受動的とは言わない。

*2:人、本、メディア等の五感で得られる全てをインプットと考える

*3:勿論サイクルが複数平行して進む事はある