「生きることと死ぬこと」なんて選択肢はなかった

生きることと死ぬことという問題と、人間は死ぬために生きているのかという問題について。

例えば、明日死ぬとしたらその日にしたいことは何だろうか?たった一日で自分がやりたいことなんて達成できない。やりたいことなんて言うのは、時間掛けて積み重ねて達成するものだ。生きることの目的とも言える事は、やりたい事をやることだと思う。死ぬために生きると言うことは無い。だから、生きるということは、やりたい事をやる為に生きるということだ。人間たちは最終的に死ぬわけだが、それは結果であって、ただの最終地点にすぎない。なぜなら、誰にだって死は平等に訪れるからだ。みんなが同じ目的で生きている訳がないし、つまり生きるということは生きている間に何をするかということなのだ。

生きている間には、みんな人とは違うことを経験する。その経験の積み重ねが生きるということだ。つまり、生き方というのはどうやって日々の積み重ねを行っていくかということに他ならない。

時間は平等に流れているため、時間の使い方なんていうのは自由だ。死なない自由はないけれども、時間の使い方は最高に自由だ。僕がどうやって時間を使おうと自由だし、それを制限されることなんてない。もし時間の使い方を制限されているとしとら、それは他人に制限されているのではなくて、自分で時間の使い方を制限しているだけだ。

労働して対価を得るということは表面的なもので、実際には自分の時間を使って生きる手段を手にしてあるだけだ。それが仕事という言葉で一括りにされてしまって本質が分かりにくくなるだけで、本来仕事なんていうのは、生きるという行為を画一的に効率化しただけだ。そして、その枠で生きるという選択をしているのは自分であって他人であり得ない。

冒頭に言ったように、人間は全員異なる生き方をしている。それを画一化していったのが仕事であって、そこに強制力などない。むしろ現在のように恐ろしいまでに画一化が進んできた時だからこそ、そうした可能性と余地を考えることができるものだし、そういう意味ではそうした本質を追求できるというのはある意味良い時代に産まれたとも思う。

生きることを求めるのか、死ぬことを求めるのか、そもそもその二つは対比して考えるようなものではない。生きるか死ぬかなんてのは戯言で、並列に並べるようなものでもない。重要なのはどうやって生きるかということであって、その選択肢を並べることは間違ってあるのである。

好きなように生きれば良いと言うは易しと思うが、正にその通りではないかと思う。生きている中でのどうするのかということである。僕なんて早いとこイタリアにでも行って牡蠣と葡萄酒に囲まれてのんびり暮らしたいと毎日のように考えている。それも自分の時間の使い方で、そのためにはどうやって自分の時間を使うかという問題が存在するだけである。最も僕の場合、実際にはそんな生活が始まったらおそらく1週間で退屈に苛まれて、遊んだり人との交流を求めたり知識を求めたりするのが関の山だとは思うが。それでも、生きるなんてのはそんなものだ。

結局はどんな状況でも自分が自分の時間の使いかたを選択する。そこにどんな他人の干渉があるかなんて、とてもじゃないが些細な問題だ。人間ができることなんて生きることと死ぬことを選ぶなんて難しい問題ではなく、その瞬間にどうやって生きるか選択して行く、深いようで全く持って単純なものなんではないだろうか。