本を読む本

本を読む本 (講談社学術文庫)

本を読む本 (講談社学術文庫)

久しぶりにブログ更新!年度末で仕事詰んでるけど合間を縫って読んだ。そもそも、本を読むという言葉は限りなく主観的であり概念的な言葉に過ぎない。僕も読書と言う娯楽が好きだが、本を読めば読む程その行為に対し「本を読む」という言葉で一括りにする事に違和感を覚える。娯楽で小説を読む事もあれば知識を得るためにノウハウ本を読むか純粋に興味に魅かれて教養書を読むのか。ここで重要になってくるのは、その行為によって自分と言う軸にどのようなオプションを付加できるかということである。本を読むと言う行為は、最終的には他の行動や経験と大して変わらないものであり、比較すべきは他の情報収集や娯楽ではなく、自らの発信行為こそが比較対象になるのではないかとも思う。分かりやすく言えばインプットの一手段が読書でありまたそれは体験によるインプットと本質は変わらず、「読書」という行為を特別視するようなものではない。むしろ注意しなければならないのは、そうしたインストール作業に捕われるのではなく出力行為、つまり自らがアウトプットする行為との均衡を考えるべきである。

memo

読書には、情報を得るための読書と理解を深めるための読書とがある。

「読む」ということをもう少し広い意味で考えれば、次のように言う事もできよう。すなわち、「発見すること」は自然や外界を読み取る技術であり、「教わる事」は本を読む技術、ないし話し手から学ぶ技術である。

一冊のテキストに書いてある事実について答えられるだけでは、十分な理解とは言えない。この読書法で扱っているのは、この程度に理解では答えられないような高度な問題である。

積極的読書への四つの質問

  1. 全体として何に関する本か。
  2. 何がどのように詳しく述べられているか。
  3. その本は全体として真実か、あるいはどの部分が真実か。
  4. それにはどんな意義があるのか。

本が本当に読者の物となるのは読者がその内容を消化して自分の血肉と化したときである。自分の血肉とする最良の方法ーそれが行間に書く事なのだ。

これまでのところ、フィクションと、知識を伝える本、つまり「教養書」との二つに大きく分類した。そして「教養書」はさらに哲学と歴史、科学と数学というように分けた。(中略)さしあたって、全部の「教養書」にあてはまることのできる基本的な区分を唯一つも受ける事にしたい。それは、理論的な著作と、実践的な著作との区分である。

書き手は、骨組みから出発してそれに肉や衣装を着け、骨組みを「包み込もう」とするが、読み手は隠れている骨組みを「暴き出そう」とする。

だから小説を、「だいたい分かる程度に読んだ」などと言うのは、全く意味がない。かりにも良い小説なら、全体を読まずにちょっと読んだだけで、その思想が分かる物ではない。だがダーウィンの『種の起原』とか、アリストテレスの『倫理学』だったら、一部を注意深く読んだだけでも、思想は掴める。

著者個人に対する興味から読む場合はそれでもよいが、本の内容を本当に理解しようとするなら、著者の意見がわかっただけでは十分ではない。「はっきり根拠が示されていない限り、著者の命題は個人的な意見に過ぎない」からである。

「自分の言葉で言い換えてみる」、文中の命題が理解できたかどうかを判断するには、これが一番良い方法である。

いま、著者と折り合って、名辞、命題、論証をつかむことができたのだから、読んで分かった事を確かめなくてはならない。著者が解決しようとした問題のうち、解決できたのはどの問題か、それらの問題を解決する途中で、あらたな問題にぶつからなかったか、著者が解決でいなかったと認められているのはどの問題か。

「如何なる判断にも、必ずその根拠を示し、知識と単なる個人的な意見の区別を明らかにすること」

著者の関連知識が不足しているか、誤っているか、論理性に欠けるか、のどれかが立証できない限り、読者には反論する資格は無い。「あなたの前提には何も誤りはない。推論にも誤りは無い。だが、私としては結論に賛成できない」ということは許されない。それは、結果が「気に入らない」と言っているだけで、反論とは言えない。著者に説得されたのなら、そのことは率直に認めるべきである。

本当の批評の務めを全うするには、自分の好みや見方を離れて、その本から自分の得た感動の原因となっているものを、客観的に述べる事である。その本のどこが良くて、どこが良く無いかを、具体的に論じ、また、その理由を述べなくてはならない。

シントピカル読書の第一段階は、主題に関連のある作品を全て再点検し、読者自身の要求にもっとも密接な関わりをもつ箇所を見つけ出す事である。

すぐれた読者になるためには、本にせよ、論文にせよ、無差別に読んでいたのではいけない。楽に読める本ばかり読んでいたのでは、読者としては成長しないだろう。自分の力以上の難解な本に取り組まねばならない。

日本人の読書にも新しい性格が加わろうとしている。おびただしい本が出る。ざっと目を通すだけで良い本、じっくり腰を落ち着けて精読すべき本、一部は丁寧に一部は流し読みすればよい本、とさまざまである。それを有効に読み分けるためにも読書の技術は身に付けておかなくてならない。