食の500年史

食の500年史

食の500年史

食の500年史ってタイトルだけど食の歴史は世界の歴史と同時並行的に語る必要があるのだな。本を読んでたらさながら高校生の時に勉強した世界史を思い出した。そういう意味ではチョコレート: 甘美な宝石の光と影と同じで、一つの研究対象を掘り下げるとその背景にある様々な歴史的要件を加味する必要があるし、当然この本の内容はとても深く研究されている。だから、読む側としては世界史や地理的知識がを備えておくのがが良いのだろうね。銃・病原菌・鉄とかもきっと一緒だね。
あとから気づいたんだけどスゴ本ブログで紹介されてた本だった。

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孔子は、ここでも、「どんなに多くの肉も、コメの生命力を高める働きにはかなわない」と述べている。このころには、近代中国料理の特徴ともいえる食材に風味を加えるパターンが確立された。料理人の腕前は、五つの風味(塩味、苦味、甘み、すっぱさ、辛さ)のバランスをいかにうまくとるかによって決められ、それは宇宙の五つの要素(大地、樹木、火、水、金属)の調和を表していた。

一般にローマでは、全てを調理してしまう中国とは異なり、野菜はそのまま大量のオリーブ油をかけてサラダにして食べていた。厳密に言うと、ローマ人は野菜を「太陽が調理したもの」とみなしていたのである。

アラブの商人や巡礼者はさまざまな地域を旅し、自分たちが出会った人々の習慣や食品に強い好奇心を示した。キリスト教徒やユダヤ教徒などの「啓典の民」や、ヒンドゥー教徒仏教徒に対する彼らの寛容な態度は、古代以降のもっとも普遍的な料理の形成に大きく貢献した。

コロンブスが1492年に行った香料諸島への西方航路開拓の航海は、人類の食習慣を根本から変えるきっかけになった。

コロンブスの交換」が不均等に進展していった理由を説明するには、幅広い視点に立って物質的・文化的な要因を検討しなければならない。ヨーロッパやアジアでは人口圧力が新しい作物の受け入れを押し進めたが、南北アメリカ大陸では、逆に、人口減少のために家畜の普及が進んでいった。

イスラム法イスラム教徒に平和の義務を負わせることで取引を奨励したのに対し、ポルトガル人は攻撃的な十字軍精神を貫こうとした。同様に、アフリカ人は自分の使用人も同等の人間と見なしたが、一方のヨーロッパ人は、黒い肌をした人間を、自分たちとは根本的に異なる、隷属の運命にある存在とみなした。

日本では侍が政治権力を握っていたが、彼らは経済的には衰退の道をたどっていたために、シンプルな料理が一つの芸術的表現へと昇華していったのはある種の必然であったと言える。

また、ムノンは『新料理概論』で初めて、ヌーヴェル・キュイジーヌ(フランス語で「新しい料理」という意味)という表現を用いたが、この呼称は今日に至るまで広く使われている。

英仏の食の相違について、より説得力のある説明を行うには、政治的・社会的状況、とくに、イギリスにおける絶対主義の隆盛を阻んだピューリタン革命と名誉革命に注目しなければならない。要するに、イギリス貴族は議会において本物の権力を手にしていたため、宮廷生活の真似事にはさほど関心がなかったというわけなのだ。

こうした流儀は徳川時代になると、日本の造園様式であるミニマリズム、すなわち最小の装飾で最大の効果を生むという原則の元で形式化され、簡素化された。…一方、庶民階級は江戸を中心に自由闊達な独自の食文化を開花させた。地方からやってきた出稼ぎ労働者のための安価な食べ物が求められるようになり、17世紀半ばに最初の蕎麦屋が開店した。

モラル・エコノミーに基づく家父長的な責任を果たしていた地方の大地主も、新たな「ポリティカル・エコノミー」の下で、都市に直接食料を販売するようになった。食料暴動が頻発したのはこうした変化が起きていた時期であり、これらの暴動は地方の大地主から見放された群衆が、昔ながらの慣習を保持するようにもとめたものであった。

しかし、鉄道や蒸気船によって世界中の食品が集められるようになると、「よい食品」という言葉の示す意味が根本的に変化し始める。たとえば肉の新鮮さはいつ屠殺されたかでなく、包装や冷凍保存の状態の善し悪しで決められるようになった。

こうしてブエノスアイレス、リマ、サンティアゴで開催される公式晩餐会のメニューからはフランス料理が徐々に姿を消すようになり、その代わりにクレオールの名物料理や、ボリュームたっぷりの肉を炭火で焼いたブラジルのシュラスコ、新鮮なシーフードで作るペルーのセビチェ、チキンとコーンとオリーヴを使ったチリのパステル・デ・チョクロなどが登場するようになった。

また日本は、産業や軍事技術の導入だけでなく、イギリスの牛肉に代表されるような西洋料理の受け入れにも熱心だった。

ある地域では国民料理が生まれ、別の地域にはそれが存在しないという現象が起こるのは、料理の客観的な優越性というよりむしろ社会的・政治的状況によるものである。フランスと中国には洗練された宮廷料理があったが、それがエリート層の料理に留まることなく全国的に展開していったのはフランスだけであった。

植民地主義のもたらした最大の影響はおそらく、困難な環境のもとでも助け合って行きていくことができるよう工夫されていた現地社会の仕組みをすっかり破壊してしまったことにある。ヨーロッパ人は、生産性の高いアフリカの共同生産体制を個人単位に切り替え、部族や宗教による対立関係を増幅させるような分割統治政策を意図的に採用した。

アメリカ大陸全土に散らばる移民達は自国の文化を移植しようと努めたが、この新しい土地に普及することになった中国料理やイタリア料理は、多くの場合、故郷の食べ物とは似ても似つかぬものとなった。

人々が職を求めて外国に移住した結果、ロンドンからリマに至る世界中の都市で国際色豊かな食習慣の多様化が進み、地元住民や旅行者はそこで五大陸の料理を味わえるようになった。こした二十世紀における「グローバルな味覚」の誕生は、過去からの離脱というよりも、異文化同士の結びつきの強まりを示すものであったと言えよう。

まるで待ち構えていたかのように、包丁を手にした女性達がアパートを飛び出して馬の死体に群がった。彼女達は叫びながら我先に良い肉にありつこうとしたため、その血しぶきが彼女達の顔を赤く染めた。

20世紀前半にヨーロッパの人々の生活水準が凄まじく後退したことが、食糧の確保は人間の基本的権利であるという認識を促すことになった。1941年、ルーズベルト大統領は、人々が欠乏から自由になることこそが、道徳的な社会の基盤の一つであると宣言する。

しかしこのような悲観的見通しに同意せず、近代技術を活用すれば発展途上国の人口増大を支えられると唱える人々もいた。高収量をもたらす種子や灌漑設備、肥料、殺虫剤、農業機械が導入されたことで、メキシコ、インド、トルコ、フィリピンでは穀物の生産量が高まり、大量生産が達成されるようになった。これが「緑の革命」である。

ヨーロッパの消費者達は遺伝子組み換え技術への反対運動を牽引したが、米国の長官はそれを農業保護主義であると非難した。

一方、現代社会におけるファストフード業界のこうした目覚ましい成功と共に食の標準化が進み、どのチェーン店でもまったく同質の商品を選べる「バリュー・メニュー」が、昔からある地域の伝統料理を凌駕するのではないかという懸念も示されるようになった。

こうした社会的公正の実現を求めるプロセスにおいても、食は、異文化を学び尊重する貴重な要素となっている。しかしこのような寛容な態度は、観光の目玉になるようなエスニック・レストランでランチを楽しむだけで生まれるものではなく、その食べ物を産み出した文化にも関心を寄せなければ、単に目新しさを求めるだけに終わってしまう。

現代の有り余る程の食品の生産は、かつての農業社会とは対照的に、生産と消費の根本的な分離、言い換えれば、料理する人とそれを食べる人との社会的な結びつきの希薄化を伴うものだった。