天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

天皇と東大 大日本帝国の生と死 上

はしがき

  • 本書の内容は「東大論」というよりは、日本の近現代史そのものである。鎖国の時代が終わった後、日本という近代国家がどのようにして作られ、それがどのようにして現代日本(戦後日本)につながることになったかを、「東大という覗き窓」を通して見た本である。言ってみればメーキング・オブ・現代日本というおもむきの本なのである。
  • 東大はもともと作られた目的が官僚育成のためだったという側面を持つが、その通りの機能を果たしてきた(工学部は技術官僚を供給してきた)。
  • 歴史を振り返ると、日本は大きな曲がり角を曲まわるたびに、大きな過誤を犯してきた。
  • おそらく、日本人は今こそ近現代史を学び直すべきなのである。日本の教育制度の驚くべき欠陥のために、現代日本人の大半が、近現代史を知らないままに育ってきてしまっている。

第一章 東大は勝海舟が作った

  • 「特に注目に値するのは、明治政府が教育の普及に力を尽くして人材の育成を図ったことである。明治の指導者達は、国を豊かにし、強くするのには一般民衆の知識が進まなくてはならないと考えていた。(略)」
  • 今思い返してみると、明治時代の日本は、よくぞあれだけ短時日の間にあれほどのものを作り上げたのだと思う程に、実に見事に(完成度が高いという意味ではない。稚拙にしろ、とにかく形あるものを仕上げたという目標達成スピードの評価)近代国家というものを作ってしまっている。
  • 伊藤、井上は急いで帰国するが、馬関戦争ははじまっており、とても止められなかったが、その講和にやっと間に合って活躍したということは良く知られている史実である。結局、伊藤、井上は留学と言っても、現地の滞在はほとんど半年にも満たず、また、初歩的語学以外の学業はほとんど身につけられなかったわけだが、この半年間の経験が、彼らの者の見方を決定的に変え、それがひいては、日本の近代国家作りに大きな影響を及ぼすことになったのである。
  • 明治維新で王政復古が成ると、古代の太政官制が復活し、弾正台や兵部省などの古代の行政機構も復活するのだが、その一環として、古代の大学校そのものが一時復活されたのである。
  • かくして、大学校の分局、分校であった、南校、東校が新しい高等教育の中心になることになったのであるが、それが東大の源流なのだ。
  • この幕末の洋学の中心となった蕃書調所であるが、これを中心となって組織していったのが、誰あろう、実は勝海舟なのである。
  • 勝海舟は、西洋風に兵制を改革し、軍艦を作り、火薬、武器を製造し、兵を西洋風に教練することなど軍事面に広く及ぶ具体的な提案を行っていた。
  • 「今日の学問はすべてみな実学である。昔の学問は十中八九までは虚学である」「今日諸君が学ぶ所は、みなことごとく社会の上において実益をおさむる学問である。これはすなわち文明の学問である」
  • しかし、何を以て虚学と真の実学を分ければいいのだろうか。寄るべき基準はただ一つしか無い。現実への正しい対応能力である。

第二章 明治四年、東大医学部は学生の八割を退学させた

  • このような大変革は、学生達の反撥を招き、反対運動が起きたが、松本は、「この方針に不服の者は退校せよ」と、断固として方針を曲げなかったので、十余名の退学者を出した後医学所の雰囲気は一変した。これが日本における近代医学教育のはじまりとされている。
  • ほぼ明治十年代を通じて、東大の学生の三分の二ないし半分を占めたのは、医学部生だったのである。
  • フルベッキの事跡のうちで特に重要なのは、岩倉使節団の派遣を実現したことだろう。明治四年から六年に渡って、岩倉具視以下、木戸孝允大久保利通伊藤博文など、まるで新政府の引っ越しかと思われるような指導的メンバーを揃えた総計四十八名の使節団が欧米各国を一年十ヶ月かけてまわったことは良く知られている。
  • 新政府の指導者達にこの時期に世界を見ることの意義を力説し、具体的にどこに行って何を見学してくるべきかを助言し、手はずをととのえ、どこに行った時には、どういう人にどう言うべきかの口上まで考えてやった上で使節団を送り出したのがフルベッキだったのである。
  • 日本の近代化というのは、明治の初めからこれなのである。何でも金さえ出せば買えると思い、成果だけを買ってきて、それをどうやって産み出したかを学ぼうとしないのだ。自ら種子をまくことや、若木を育てる努力を惜しむから、いつまでたっても自分で新しいものを創り出せないのである。昨今の日本が陥っている苦境も、その根っこにあるのは、これなのだ。

第三章 初代学長・加藤弘之の変節

  • 「君主専制、君主専治、貴顕政治等のごときはみないまだ開花文明に向かわざる国の政体なり。なかんずく専制のごときは蛮夷の政体にして、もっとも憎むべく賎しむべきものなり」(略)「五政体中、公明正大、確然不抜の国憲を制立し、もって真の治安を求むるものは、ひとり上下同治・万民共治の二政体のみ。よってこれを立憲政体を称す」
  • 大事なのは、何よりも、憲法と議会が存在することで、この二つがしっかりとしていれば、どちらでも上手く行くともいっている。
  • 「…どうも皇学と漢学が喧嘩して大学がつぶれたという訳であるが、学問を国で別けるということは間違ったことと思う。学科というものは国別で別けるということは可笑しい、…(略)」
  • わずか半月の間に、江藤、加藤のコンビが、日本の教育を洋学中心のレールの上にのせてしまったのである。これぞ有司専制の典型といってもよいだろう。もし議会があって、そこで今後の教育の在り方をめぐってああでもない、こうでもないの議論を続けていたら、とてもこうはいかなかったろう。

第四章 『国体新論』と「天皇機関説

  • 大日本帝国は、万世一系天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。そしてこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、かく忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである」
  • 天皇機関説とはなにかと言うと、国家の主体はどこにあるのかという問題である。言葉を換えて言えば、国家の統治権はどこに属しているのかという問題である。国家の統治権天皇個人に属していて、天皇はそれを自分の好き勝手にどのようにでも行使してよい権力として持っているのか、それとも、統治権の主体は国家そのものにあり、天皇個人は国家の最高機関としてそれを行使する機能を持つにすぎないのかという問題である。
  • この加藤の身の処し方と、先に引いた美濃部達吉の書簡にあった、「空しくこの風潮に屈服し、退いて一心の安きをむさぼ」るよりは「及ばぬまでも、憲政擁護のためには一身を犠牲とするも悔いざるの覚悟」とでは、あまりにも大きな違いがあるといわなければならない。

第五章 慶応は東大より偉かった

  • 西欧の大学の伝統においては、たとえ国立大学であっても、大学において最も大切にされていたのは、学問の自由(大学の独立、自治)であって、学長たる者は、国家と大学の間で何らかの軋轢、対立が生じるようなことがあれば、大学を代表する者として、教育、学術を担当する行政機構(日本なら文部省)当局者と丁丁発止のやりあいをすべき存在なのである。ところが日本の大学の場合は、学長は文部行政の末端機関そのものとなっており、権力に対して大学を代表する者というより、権力を代表して大学を監視し秩序保持につとめる者となっていたのである。
  • 話を戻すと、森の訓示は、大学は大学(学問)のためにあるのではなく、国家のためにあるのだと言うことを明確にしていた。
  • 大学教育にたずさわる者の本尊は国家だと言うのである。そもそも、国立大学というものは、国家が国費を費やして丸抱えで作り維持しているものだが、それはそれが国家のためになると思えばこそそうしているのであって、大学がその期待に応え、国家のためにつくすのは当たり前のことではないかというのが、森の論理だった。
  • その当時の東京の法科大学院の教授たちは、さまざまな形で行政官庁と結びつき、国政の中に活躍の場をもっていた。今の時点に立って、彼らが具体的に果たしていた役割を眺めてみると、果たして大学の教師であったのか、それとも行政官であったのか、その識別が困難なケースが少なくない。
  • そのようなマインドの持ち主に対して、正面から反撥したのが、福沢諭吉である。福沢は、明治七年に書いた『学問のすゝめ』第四編「学者の職分を論ず」において、官へ官へと流れる洋学者流の知識人達を批判した。
  • 実際、開成学校など、名のある洋学所はこの大騒動中、みんな閉鎖されていたのである。その後も、明治新政府が、大学南校などの形で洋学教育を復興するまでの間、日本で洋学教育をちゃんとやっているところは、慶応義塾だけだった。

第六章 早大の自立精神、東大の点数主義

  • 大学が危機の時代を迎えたためか、最近大学論がさかんだが、この時代も、今に劣らず大学論が盛んだった。それというのも、高等教育が東京大学帝国大学)に独占された状態がつづき、それが明治維新国家の独占的人材供給源になっている現状に対して、これでいいのかという批判の声がどんどん大きくなっていったからである。
  • 具体的な批判として福沢諭吉の見解を前章で紹介したが、慶応と並ぶもう一方の私学の雄、早稲田大学にしても、官学(帝国大学)に対する強烈な批判の念から生まれた者である。
  • 小野は、若者は政治に関わるべからずとする世の風潮や政府当局者のマインドを批判し、若者はもっと政治にかかわれと挑発した。
  • 東京専門学校では、理学(サイエンス)より、法学、政治に力点を置いている。それは、今の日本の社会においては、そちらを先にすべきことが求められているからだ、というわけだ。
  • 大学での成績が俸給に直結してしまったのである。これが東大の法科生の点数主義を決定的なものにした。
  • このような特権を設けることで、大学はその本質を忘れ大学をして官吏養成所にしてしまうことになったと徳富はいう。
  • それも、彼らが本当に学問の道に邁進するというなら、よい。ところが、彼らは、大学を出るや否や、学問の道など簡単に忘れ、あとは官界で出世の道をよじ登ることしか眼中に無くなる。
  • 先の下岡忠治の手記に、丸暗記につとめすぎて「脳髄を老腐にし」という表現があったが、そういう実態があることを、高名な法学者(民法、商法)である穂積陳重が教授会で認めているのである。
  • こういう憲法学者が、自分の主張とちょっとでもちがったら零点といって、自分の学説の丸暗記を強制したのだから、下岡ならずとも、脳味噌が腐っていく気がしただろう。

第七章 元落第生・北里柴三郎博士の抵抗

  • 政府当局者の側から見れば、明治維新以来、国内では、内乱や一揆が続発し、国際的にも国家の威信を揺るがす事件が相次いでおり、強力な政権の確立と富国強兵による立国が急がれていた。最優先の政治課題は、あくまで国家の安定的基盤の確立で、大学はその国家目標を達成するための道具(マンパワー供給源)としか考えられていなかった。それまでに単に文明開化を中心的に牽引していく輸入学問の最高の研究教育機関としか考えられていなかった大学が、国家の基盤作りの最も枢要な機関と位置づけられ、そのようなものとして制度的に確立されていく(明治十九年帝国大学令)背景には、このうな状況があったのである。
  • シュタインは実際には来日しなかったのであるが、日本の大学が、シュタインの影響を受けた人々の手によって、シュタインの思い描いたような大学(官僚制機関)になっていったことは前章で述べた通りである。
  • 良く知られている様に、ドイツ、フランスは国立大学が中心だが、イギリス、アメリカは国立大学がほとんど無くて、私立大学ないし公立大学が中心である。日本で良く知られているアメリカのハーバード大学、MITも、イギリスのオックスフォード大学、ケンブリッジ大学も私立である。
  • 学問の自由を守ることと、大学の財政的基盤を確立すること。これが大学にとっていつでも大きな問題だった。国立大学は、英、米の大学のように、独自の予算を持たず、百パーセント国家資金で運営されており、その資金は文部省の予算として実体化されていた。(略)言ってみれば、大学が手にする資金は百パーセントヒモ付きの資金で、大学が裁量権を振るえる余地など全くなかったのである。
  • 大正五年、伝研を東大のものとした年早々、血清、ワクチン代は十五万四千円を超え、これらは授業料・入学料のほとんど六割近くになり、利子収入の十倍以上だった。
  • 日本の帝国主義化がすすむにつれて、軍事力、経済力などの面で日本の国際競争力を維持し強化していくためには、大学の力がぜひ必要だという認識が生まれてくるからである。東京大学が国家のために奉仕する機関となったときから、戦争と東京大学の縁は深くならざるをえなかったのである。

第八章 「不敬事件」内村鑑三を脅した一校生

  • 内村はキリスト教の信仰に従って、いついかなるときも偶像をおがんだことがないのかと言えば、そんなことはない。世間一般の慣習に従うことにはやぶさかでない人だったから、天皇御真影に頭をさげるということはいつもしていたし、このときも、それは拒絶していないのである。
  • 内村は、公然と礼拝を拒絶した訳ではなく、ちょっとだけ頭を下げるにはさげたのである。騒ぎが大きなるのは、頭の下げ方が足りないとして騒ぎ出した学生がいたからである。

第九章 東大国史科の「小島高徳抹殺論」

  • 明治四年(一八七一)から六年(一八七三)にかけて、右大臣岩倉具視特命全権大使とするいわゆる岩倉使節団が、欧米十二カ国百二十都市を訪問して回った。団員には、木戸孝允大久保利通という時の政府の二台指導者を含み、以下、伊藤博文田中光顕、山田顕義、田中不二麻呂、佐佐木高行など、後に政府の要職を占めることになる若手官僚約五十名が随行するという政府をあげての空前の大視察旅行だった。
  • 修史局以来、この仕事を中心的に推進していたのが、旧薩摩藩士の重野安繹だった。彼は中国史考証学西洋史実証主義の影響を強く受け、資料批判と考証に長じていた。
  • 歴史は先ず史料集めからだというので、重野をはじめ編修官たちは、最初の数年間、もっぱら日本全国をまわって資料の収集につとめた。(略)明治二十年頃までに集めた資料は軽く十万点を超え、『大日本史』を書くために水戸藩が何十年もかけて集めた史料の十倍以上になった。
  • 正史編纂はやめても、史料編纂は意義があると考え、明治二十一年に、これをそのまま帝国大学文科大学に移管した。これが東京大学史料編纂所の始まりである。
  • この論文は、今から見ると、当たり前すぎる程当たり前のことしか言っていないが、それまでの歴史があまりに勧善懲悪のイデオロギーにこりかたまっていたので、これでも斬新な見解だった。(略)『大日本史』『太平記』を初めとする日本の往時の史書は全て、勧善懲悪のイデオロギーによって貫かれており、そのイデオロギーの背骨が通っていれば、少々の史的事実関係のねじ曲げなど、平気で通っていたのである。
  • 公然たる論証考証ができない歴史学など、本当の歴史学ではない。生まれたばかりの史学は、ここにほとんど扼殺がごときうきめを見たといってもよい。このような状況は、これ以後一層悪化し、歴史学天皇制がかかわる問題にいっさいふれられなくなっていくのである。

第十章 天皇「神格化」への道

  • 山片ならずとも、神話をそのまま事実と信じることはあまりにもばかげているということは、江戸時代のまっとうな知識人の共通認識だった。新井白石は『古史通』の中で、「神は人なり」と言い切っていたし、林羅山は、神武天皇は古代の豪傑に一人に過ぎないと言っていた。
  • 自由民権運動が次第に反政府運動の色彩を強めてくると、それに対抗して、政府は天皇をシンボルとして押し立てることで政治的求心力を保とうとした。いずれの側にとっても、天皇は神格化されたままの方が良い。天皇の統治的ポジションは変わってくるにつれ、天皇神話の持つ意味も次第に変わっていった。それに応じて、社会の天皇観も変わっていった。
  • 状況がはっきり変わるのは、加藤の『国体新論』絶版事件の翌明治十五年一月に、不敬罪が施行されてからである。それによって、天皇・皇太子に不敬の現行を働くものは、五年以下の重禁固、二百円以下の罰金に処されることになったのである。
  • ところが、明治十四年の教科書の記述から、悪いことは一切書かず、天皇の良い所ばかりを強調する様になる。仁徳天皇が山の上から国を見たところ、民のかまどから煙が上がらないのを見て、しばらく税を納めなくてよいようにしたなどという話が必ず教科書に載るようになったのはこの時期からである。
  • 結局、史料の編纂などというものは、何十年もの時間をかけてゆっくり丹念にやっていかなければならない仕事であって、時勢が変わったから問いってバタバタ急がなければならないという仕事でもない。そこで南北朝時代の史料については、しばらく編纂を中断ということにしてしまった。
  • 第日本史料は今も延々と編纂が続けられており、既に発行されたものだけで三百六十六冊を数え、各冊五百ページ、全部積み重ねると二十メートルを楽に超えるという、世界でも稀な史料集になっている。

第十一章 日露戦争を煽った七博士

  • 戸水寛人、寺尾亨、金井延、富井政章、小野塚喜平次、高橋作衛、中村進午。この七人が、時の総理、桂太郎を尋ねて、建白したのである。ここ数年来の極東における外工作は失敗ばかりで、今また対露政策において誤りを犯そうとしている。しかし、ここで再び誤りを犯すと、国家尊像の危機にさらされるから、重大決意を持ってことにのぞめという主張だった。
  • 侵略主義、領土拡張主義、敵国撲滅索こそ道徳であるという、このような考えがやがて日本の国策の基本理念(少なくとも密教的部分において)になっていくのである。

第十二章 戸水寛人教授の「日露戦争継続論」

  • この時代には、まだ少数ながら、こういうことを堂々と主張できる人がいた。しかし、やがて、八紘一宇のスローガンの元に、日本は天皇の下に万邦統一する聖なる使命を帯びた国家であるというファナティズムに国全体が支配されるようになる。そのような時代への転換点が、この日露戦争の時代なのである。そして、その転換に大きくあずかったのが、東京帝国大学の教授たちだったのである。
  • 日露戦争がこのような苦しい戦争であったことは、国民に全く知らされていなかった。日露戦争中はもとより、日露戦争のあとも、ずっと知らされていなかった。日露戦争の裏側が初めて世に知られるようになるのは、なんど今次大戦に敗北して、軍事上の秘密とされていたことが次々に明るみに出てきたことによってなのである。日本人は、歴史の真実というものを、今次大戦の終わりまで、何一つ知らないできたということなのだ。

第十三章 戸水事件と美濃部達吉

  • 戸水事件の前に、ロシア討つべしの世論を煽った対露同士会などの対外強行派は、今度は講和問題同士連合会を作り、講和が煮詰まる前から各地で講和反対運動を展開した。講和が現実のもの(失意落胆させるもの)になるとともに、その運動は一挙に拡大し、条約破棄、戦争継続が各地の大会で決議されたりした。それがついに暴動にまで発展したのが、日々や焼き討ち事件である。
  • ビスマルクもまた、ヴィルヒョーが学会で成功することを喜んでいた。ところが日本の場合は、政治家が狭量で、自分の意見に反対するものを見るときは、仇敵を見るがごとき心情になって、少しも寛容の心が無い。こういう心の狭さが日本の学芸の進歩を遅らせているひとつの原因である。
  • 学問の歴史は、坦々たる大道を闊歩してきた訳ではない。何度も時の政治権力者からの抑圧があり、それをはねのける戦いが必要であった。その闘いは自然科学の世界でも、社会科学の世界でも必要だった。その過程で、幾多の犠牲者も出た。そのような闘いを経て、今日の学問がある。そして、その闘いは、他の誰に任せることも出来ず、学者自身が展開しなければならないものである。
  • 美濃部の政府批判の要点は、権力の乱用という一点にあった。立憲政治は民意の尊重を基礎とする政治である。民意のあるところは自由にこれを発表させる機会を与えるというのが立憲政治の根本である。従って、民意の発表を権力的に抑圧するのは、全て権力の濫用ということができる。

第十四章 元白虎隊総長・山川健次郎の奔走

  • 「本来大学のごとき学問の研究、学者の養成を目的とするものは、全く政権の外に独立せしめ、政府の干渉を絶たざるべからず」というのが本来の大学の在り方なのに、日本では政府と大学が一体化し、お互いに相手を自分の一部と見なしている。
  • 大学の独立を語る時、ともすれば、理念、精神の面から論じられがちで、制度面から語るときも、人事権は誰がどの限度において持つべきか、政府の監督権はどの程度認められるべきかといった点についてしか語られないが、それより本当に大切なのは、経済面の独立であるという。経済的独立なしには真の独立はかちえられないからである。
  • 経済的に独立させるには、私立にしてしまうのが一番良い。大学問題の諸悪の根源は、法科大学が、官僚養成所になっていることである。日本が未だ未開の国であった頃は、急いで官僚を養成するために、官立の法科大学を持つ必要もあったろうが、今は私立大学で充分官僚を育てられるのだから、まず、法科大学(法学部)を廃止してしまうのがよい。

第十五章 山川健次郎と超能力者・千里眼事件

  • 岡村は、日本の法学者では珍しいほど徹底的なリベラリストで、日本の家族制度など、根本的に誤っていると昔から公言している人だった。頼んだ方は、そういう人とは全く知らず、単に京都帝大教授の肩書きだけで、小学校教員達に、家族制度についてありがたい話をしてくれるだろうと思っていたのかもしれないが、岡村がやったのは、家族制度全否定論だった。
  • 家というのは、日本の国体である天皇制の根幹を為すイデオロギーだったのである。日本という国は、天皇を家長とする家族国家であると考えられていた。忠孝一本というスローガンがあったが、天皇制と家族制度は、家族制度を支える親孝行という道徳原理と、天皇への忠義心とが一体化して、体制を支える基本原理となっていたのである。

第十六章 沢柳・京大教授の七教授クビ切り事件

  • 当時、高等教育機関をめぐって、さまざまの問題がもちあがっており、学制改革が強く叫ばれていた。奥田はそれを自分の手で実現しようと、学制改革のための調査機関として、教育調査会を作り、その総裁に、超大臣級の人物として、樺山資紀海軍大将を担ぎ出し、自分はその下に入って実験を握るなどした。具体的に、学制改革の対象となっていた問題は、私立大学を正式な大学に昇格させるかどうか(慶応、早稲田など、既に大学を名乗っていた私立大学も、法制上は専門学校に過ぎず、帝国大学が持つようなさまざまの特権を持っていなかった)、商科大学、工科大学などの単科大学を認めるかどうか、高等学校の基本的性格づけをどうするかなど、多岐にわたっていた。
  • 文部省のロジックの基盤にあるのは、天皇大権論であり、大学側の論理の基盤にあるのは、アカデミック・フリーダム(学問の自由)論である。天皇大権はどこまでアカデミック・フリーダムをおさえつけることができるか、アカデミック・フリーダムはどこまで天皇大権に抵抗できるか、この主題による変奏曲が演奏者を変えつつ何度も繰り返されたのが、戦前の大学の自治問題の歴史と総括できるだろうが、その最初の本格的対決が沢柳事件であったということができる。
  • この沢柳という人は、相当の変わり者的人格者で、敵からすら尊敬を集めずにはおかないようなところがあったのである。学生時代から熱烈な仏教帰依者となり、仏教の戒律たる十善戒、「不殺生戒」「不偸盗戒」「不邪淫戒」「不妄語戒」「不綺語戒」「不悪口戒」「不両舌戒」「不慳貪戒」「不瞋恚戒」「不邪見戒」を固く守れと人に説いただけでなく、「自ら十善の実行家たらんと一個の修行僧の如く自己を鞭し自己を戒し、身を粉にして修行したのであつた。元来彼の道徳観は、寸善といえども尚為さざるべからず、寸悪といえども尚犯すべからずといふ土台の上に立って、これも道徳の聖締第一義は所謂不言実行、口に之を言ふにあらず、身に自ら行ふにあるとした」という。

第十七章 東大経済は一橋にはかなわない

  • 学生数も大きく増えた。卒業生の五年毎の累計数でいくと、明治十九年の帝国大学スタートのころは五百名余、東京帝国大学となった明治三十年頃は約千七百名、明治の終わり頃は約四千名、大正八年頃には約六千名となっていた。なぜこれほど急に学生数が増えていったかというと、日露戦争を経て、日本の資本主義が急激な成長期を迎えたからである。財閥などの民間企業が、官僚と同水準の人材を求めて、帝国大学など高等教育機関の卒業生を積極的に採用するようになった。特に第一次世界大戦の時代(一九一四〜一九一八。大正三年〜七年)、日本が未曾有の戦争景気に沸いたあたりから、人材はますます払底し、高等教育機関は拡充に拡充を重ねなければならないようになった。これが、大正八年の大学制度大改革の最大の背景である。
  • いまにいたるも、東大経済学部の力が、一橋大学のそれよりはるかに低く評価されていることは、『ダイヤモンド』などが例年行っている一流企業人事部長アンケート調査による大学別卒業生の実力評価ランキングを見ればすぐにわかることである。
  • ヴェンティヒは、法学部のような授業を続けている限り、学生は真の経済学的能力(現実の経済問題に直面したときの応用能力)を身につけることができないことを強調し、経済学部は一刻も早く、法学部から離れて自立し、独自の教育をはじめろと主張したのである。

第十八章 大逆事件と森戸辰男

  • 大学教育で与えるべきは、そのような現実経済の中で困難に直面した時に、それを自分の力で切り抜けていく難題対応能力である。難題に直面した時に、どうすればいいのかを考えていく方法論である。
  • 学生に具体的な課題を与え、資料や参考書を縦横に利用して、自分なりの論文、草案、意見書などをまとめさせるのがよい。そういうゼミナールをやるために必要なのは、なによりも、資料や参考書を充分に集めて、学生がいつでも利用できるようにした図書館である。また、資料、参考書をどう利用したらいいのかを教える専任の指導者、職員が必須である。

第十九章 大正デモクラシーの旗手・吉野作造

  • 社会主義共産主義の弾圧の仕方には、時代によって微妙な違いがあり、新聞紙条例、出版条例などの弾圧法規も何度も改正になっているので、許されることと許されないことの一線が時代によって少しずつ違う。重要な一線の引かれ方は、まず、社会主義への言及は学術上の研究としてなされているのか、それとも現実的な政治主張・政治宣伝としてなされているのかというところにある。さらに、具体的な政治行動の呼びかけをしているかどうかというところにある。
  • 先に述べたように、日露戦争第一次大戦(1914〜1918)によって、日本の経済は飛躍的に伸び、日本は政治的にも世界の列強の一角に数えられるようになった。この間の経済の躍進ぶりを、戦前の国富統計によって示してみると、次のようになる。
    • 1905(明治38) 226億円
    • 1910(明治43) 294億円
    • 1913(大正2) 320億円
    • 1917(大正6) 457億円
    • 1919(大正8) 861億円
    • 1924(大正13) 1,023億円
    • 1930(昭和5) 1,102億円
    • 1935(昭和10) 1,243億円
  • どのようなレトリックで天皇制とデモクラシーを調和させたかというと、デモクラシーを一つの概念として捉えず、実はこれは二つの側面を持つ複合概念であるとして、一つの面は捨てるが他の面を拾うことによってである。具体的に言うと、国家権力の所在がどこにあるかという権力論としてのデモクラシーは人民主権説であり、これは確かに天皇に国家主権が帰属するとする日本の憲法の立場とは全く相容れない危険思想であるとする。しかし、デモクラシーには、もう一つの側面、政治の在り方としてのデモクラシーがあるという。どのよな目的をもって政治を行うのかと言えば、民衆の利福のためであるべきであり、政策決定はこのようになされなければならないのかと言えば、民衆の意向にそう形でなされるべきであるという意味においてのデモクラシーである。この意味でのデモクラシーじゃ天皇制と調和する。
  • 吉野の民主主義は、大逆事件以後、冬の時代として閉塞状態にあった社会思潮に明るい灯をともし、その上に大正デモクラシーの花が開いていった。
  • 「是の黎明期に際して誰が現代日本改造の局に当たるべきか。(略)我々は既に支配階級に絶望した。然るとき改造の主導者たるべき者は、純真なる良心と聡明なる理智と熱烈なる気魄とを有する青年自身でなければならぬ。青年の血液は無垢であり、青年の立場は公平であり、青年の理想は高萬である。天下青年の立つべき日は将に来たではないか」森戸事件が起きた時代は、このような時代だったのである。

第二十章 "右翼イデオローグ"上杉慎吉教授と大物元老

  • そもそも森戸事件の発端は、学生の右翼団体、興国同志会が、『経済学研究』にのった森戸のクロトポキン思想紹介論文はけしからんと内務省に対して働きかけたことにあるのだが、この団体の成立にも、新人会が関係していた。右翼が新人会に対抗すべく作った組織が興国同志会なのである。
  • 要するに国体とは政治権力の在り方、すなわち政治の形態ということである。そう聞くと、国体と政体はどこがちがうのかと疑問を持つかもしれないが、それも当然、実は、西洋語には、国体にピタリと当てはまる言葉はない。

第二十一章 元老・山県有朋の学者亡国論

  • 既に学者は絶対に正直でなければならぬ。故に学者は絶対に研究の自由を有する事を理想とする。自ら真なりと認めたる事は、如何なる事なりとも飽くまでも之を真なりとして進むの自由を有たなければ、真理に到達する道がないのである。
  • 「凡そ無政府主義であらうが何であらうがその研究は思想の自由、学問の独立の範囲にあるもので日本の憲法上許さるべきものである。況やその研究者が学問思想の研究を以て生命とする大学教授であるのにおいては十分に信任さるべきで、それが圧迫されるが如きは立憲政治の不完全を証するものである、憲法の何たるやを知って居る者の黙する能わざる所である。」

第二十二章 血盟団事件に参加した帝大生

  • 暗殺団に加わっていた四人の帝国大学大学生、四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘、田中邦雄らは、いずれも、興国同志会の後身、七生社のメンバーだった。
  • 日本の国家革新運動は、「二つの源流」ともども天皇中心主義で、しかも同時に社会主義的内容を持っていると言う世界でも独特の右翼思想だったのである。
  • 「…(略)…起てよ、少壮憂国の同士諸君、今諸君の時代がきた。諸君は従来随分元老や大臣や官僚や政党やを罵倒したものだ。彼らの行動を憤慨したものだ。然るに今日は如何なる有様であるか。もう罵倒したり憤慨するだけの値打ちすら無いとするに至った…」

第二十三章 東大新右翼ホープ岸信介

  • 前の、興国同志会解体の流れのあとにも同じパターンが起きていた。一部は別の急進右翼団体に、一部は国家官僚機構の内部に入って出世を目指すと言う方向である。といって後者は単なる立身出世願望に転換した訳ではなく、国家主義者として憂国の志を持ち続けた者が多かった。そこから、いわゆる昭和動乱期の革新官僚の流れが生まれてくるのである。これまた上杉スクールが歴史の中で生んだ産物の一つといってよい。その代表が前にも紹介した、上杉が自分の後継者にしようとした岸信介である。

第二十四章 新人会きっての武闘派・田中清玄

  • あの動乱の時代、右翼の学生にとっても左翼の学生にとっても、学園内部のヘゲモニー争いは主たる関心ごとではなく、どちらも、突出した部分は、すぐに学園の外に出て、リアルな革命運動、国家革新運動に突進していった。そこでは国家権力との間にリアルな対決が行われ、本気のクーデター・暴力革命、本気のテロが構想され、部分的に実践されていったのである。
  • 田中清玄は昭和二年、大学に入った年から共産党に入党していた。はじめは下っ端だが、上級幹部が次々にやられるたび、上に上がっていき、ついには昭和四年七月、つまりは七生社とのケンカの一年あまり後には、第二次共産党の幹部が根こそぎ逮捕されてしまったために、彼が二十三歳の若さで、共産党の委員長になってしまうのである。それから、昭和五年に逮捕されるまで、彼が指導した時代の共産党は、武装共産党とよばれている。

第二十五章 三・一五共産党大検挙の波紋

  • 治安維持法が、組織罪、参加罪という新しい犯罪累計を作って、それを罰する事にした特別のタイプ法律と言われるのは、法律としてこの法があまりにも特異的だからである。
  • 『われわれはただ学内で思想的な研究をやっているだけでは足りない。運動として発展するためには、どうしても労働運動と結びつかないとだめだ。労働者と結びついてこそ社会主義の運動だ』
  • もはや新人会のごとき地上の合法組織が活動を継続できるような時代ではなくなった。共産主義運動は完全に地下組織でなければ、活動を維持できなくなっていた。

第二十六章 河上肇はなぜ京大を去ったか

  • 「この頃河上肇は何といっても京大のシンボル的存在であった。瀧川幸辰は『先生の名声は京大経済学部を圧倒していた。経済学部の河上か河上の経済学部かわからぬくらいであった。』…」
  • 「その当時、荒木(寅三郎)さんが京大の総長でしてね、文部省あたりから荒木さんに、河上が論文を書いたり、大山(郁夫)さんの応援演説にいったり、学生に悪い影響を与えたりして困る、やめさすことはできまいか、といような要求があったのです。」

第二十七章 河上肇とスパイM

  • 京都大学を退官して、『資本論』の翻訳に没頭していた河上肇は、昭和初頭から地下の共産党へのカンパをはじめた。はじめは組織の末端にいた活動家に対する寄付だけだったが、昭和六年夏の頃、日本の民法教授杉ノ原舜一を介して、当中央と連絡がつき、資金を党中央に直接入れるようになった。
  • 河上も、自分が逮捕されて取り調べを受けていくうちに、同じ事が自分でも分かってくる。要するに、中央委員にスパイがいて、共産党の秘密等と言うものは事実上何も無く、みんな当局にばればれだったということである。
  • 河上は敗北感に打ちひしがれ、政治活動から一切身を引く決意をした。
  • 『私は今後、マルクス主義の宣伝はもちろん、これが理論的研究、これに関する論著の翻訳(資本論の翻訳をも含む)等をも、すっかり拗訒し、結局マルクス学者としての自分の存在をも無くしてしまう事に決心しましたから、どうぞ御諒承願います。』

第二十八章 血盟団と安岡篤

  • 日本では、左の側から共産党が悪名を起こそうとしていたが、右の側からも国家改造を唱える国家革新運動が盛り上がり、左右両翼の革命運動が競い合う形になっていた。共産党主義革命が、下からの大衆的蜂起による革命を目指していたのに対し、右からの革命は、クーデターによって上から一挙に国家改造をはかることを企図していた、
  • この寮は大学寮と呼ばれ、やがてここは、安岡、大川らを慕って集ってくる国家革新をめざす青年達の梁山泊と化していった。
  • ここに井上さんとあるのは、血盟団の指導者井上日召、権藤先生とあるのは、当時若手の国家改造論者たちに強い影響力を持っていた右翼の理論指導者、権藤成卿(善次郎)である。それらの人々と会ってみると、安岡が革命家としてグレードが低いと言う事がわかったというのである。
  • 少なくとも革命をやらうと云ふなら生死を共にする同士でなければならぬ、世間でいつている所謂同士等では何の役にも立たぬ、と喝破された、安岡氏が改造の革命のと云つているが本当にやる気はないのだ、本当にやる気なら軍隊に同士を作り、真剣な青年を集めるはずだ、小役人共を集めて何が出来るものか、要するにやる気がないのだ、此等の言は一々僕の肺肝に徹した、誠にさうだ、かねてより生死を共にする同士を作っておかなくちゃ何も出来ない、殊に武力革命をやるには軍隊内に革命のために生死を同じうする同士を作らねばならぬ、と初めて悟った、そこで自分は頭を下げて井上さんに今後自分を指導して下さいと頼んだ」

第二十九章 昭和維新の最先端にいた帝大生・四元義隆

  • 昭和七年二月九日、選挙運動のために、本郷駒本小学校の演説会場にやってきた民政党の重鎮、井上準之助前蔵相が、暴漢に襲われ、最新型のブローニング拳銃で射殺されるという事件が起きた。犯人は、「撃ったのはおれだ」と叫んで、現場に踏み止まったため、すぐに逮捕された。
  • 「兎に角、井上さんの一挙一動は革命であるやうに感じました。井上さんが歩いてくると革命が歩いてくるやうに、井上さんが酒を飲めば革命が酒を飲むやうに、井上さんが話をすれば革命が話をするやうな感じです。…」
  • 「外国の例にしても我国の明治維新の例にしても、最初少数の情熱家が現実の悪逆に堪えられなくなて成敗を超越して起爆薬的行動に出る。そんなのは其後時を置いて幾度か蜂起的に燃え上がる。こんな事で何年か経過するが最後に軍隊を動かす者が軍内か民間にかは別として、兎も角武力を持つて既成勢力を打破して改造建設に入るのが常だ。」
  • そこで、もっと急進的な方法として、藤井が提案したのが、自分の命をかけた過激な鼓動をする事によって、革命の起爆剤になり、本格的な国家改造に火をつけることだった。

第三十章 国家改造運動のカリスマ・井上日召

  • 井上は、明治十九年(一八八六)群馬県生まれで、事件当時四十五歳だった。父は熊本神風連の流れを汲む医者で、忠君愛国に凝り固まっていた。
  • 「あれほど難渋した『善悪の標準』の問題も、天地一体、万物同根、の一如感に立つて考えてみると、スラスラと、訳も無く解けた。何が善で、なにが悪か、私は従来それらを対立する二つのものと考えていたが、実に本来『善悪不二』なのである。ただ我々の思惟、行動が、宇宙一元の真理に順応した場合に、善となり、これに背反した場合に、悪と成るのである。
  • 昭和六年春当時、藤井中尉は四元に送ってきた歌と、それに対して返した歌の二首が、法廷で披露されている。<藤井から四元へ>国民を救はん道は唯一つされいけにえにとなりて死ぬこと<四元から藤井へ>同胞の悲しき苦悩断たなんと唯一筋に吾はしぬべし
  • 血盟団に参加したのは、このような真理で、国家救済のために死のうと決意した若者たちだったのである。

第三十一章 血盟団事件 幻の"紀元節テロ計画"

  • 「問 すると香樫会合のときの被告の気持ちは国家改造についてはもう啓蒙時代ではなく実行時代であると考えていたのか。」「答 さうです。」「問 其の考えは井上と一致した訳か。」「答 勿論さうです。」
  • この鹿児島行きによって、はじめ一週間か十日ですむと思っていた九州・関西の同士への連絡がずっと遅れる事になる。そうこうしているうちに、上海事変が始まってしまった。
  • 『この少人数で、わずかな武器を取って立ち上がるには暗殺に徹する以外に道はない。革命にとって、単なる捨て石になるかもしれない。それでも、君たちは悔いなく決行できるのか。』『殺るっ!』と、若手が異口同音に答えた。

第三十二章 共産党「赤化運動」激化と「一人一殺」

  • 井上の唱える「捨石主義」を受け入れてしまうと、もう理屈を飛び越えて、死ねば良いと言う行動主義になってしまうのである。理論的に悩む段階は、一年も前に通り過ぎていた。
  • 「私は言論などでやっても何にもならんといふことは前から感じておりました。さういふものは役に立ちませぬその時丈けはいい気持ちになりますが直ぐに忘れられて何にもなりませぬ。」
  • 「右の如く一選挙毎に三、四百万円の金が要るとすれば、之を各党員の醸出せる清浄な党費で賄ふことは到底不可能でありますから、どうしても資本家、地主の不浄金を仰がねばなりませぬ。(略)事情は右の如くでありますから、理想選挙に依り議会に多数を得て政権を取り、改革を行ふと云ふことは、木によりて魚を求むる類で、全く絶望であります」

第三十三章 血盟団を匿った二人の大物思想家

  • 井上日飯召グループ(含海軍将校グループ)は、もともと十月事件クーデタ計画の末端を担うことになっていた。それが不発に終わったことが不満で、今度は自分たちが起爆剤となって散ることで、大クーデタ計画を復活させ、昭和維新を実現しようとしていたのである。
  • 自分たちには、本格的国家改造を主体的にになう力が内ことは承知の上で、本部隊決起させるために先駆的に立ち上がろうとした訳である(捨石主義)

第三十四章 権藤成卿血盟団グループの壊滅

  • 権藤は健康が優れなかったため(嘆息の持病)、現実のテロ活動には参加できるタイプの人間ではなかったが、イデオロギー的に、かねてからこの時代の国家主義運動者たちの多くに広くて強い影響力を持っており、黒幕と考えられても仕方が無い一面があった。
  • 日本の歴史はこのような、万民平等な自治を楽しむ時代と専横な覇者による支配に苦しむ時代の交代の歴史であった、そしていままた、明治維新で権力を握った藩閥政治家たちの専横がきわまる時代となっている。権力者達は資本主義と政党政治を導入し、それを恣意的に利用する事であくことなく私益をはかろうとしたため、国民生活は疲弊しきり、怨嗟の声が世に満ち満ちている。その声が天皇に届かない状態にあるから、もう一度、革命によって専横な中間権力者を取り除き、君民一体の幸せな自治を楽しむ時代を取り戻せ、というのが、権藤の主張のアウトラインである。

第三十五章 日本中を右傾化させて五・十五事件と神兵隊事件

  • 血盟団事件とそれに続く五・十五事件で、日本の政党内閣の時代は終わり、これ以後、軍人内閣ないし軍部と妥協した内閣がつづくことなる。そして、二・二六事件(一九三六)を経て、日中戦争(一九三七〜)、太平洋戦争(一九四一〜)の時代へと突入してくーパールハーバーまであとわずか九年である。
  • なかんずく大きな影響を与えたのは、五・十五事件だった。それは、現役の海軍青年将校と、陸軍の青年士官候補生が集団で首相官邸を襲って、時の首相犬養毅を暗殺すると言う衝撃的な事件だった。
  • 「五・十五事件」が他のクーデタ、テロ事件と違って、特に国民の共感を集めたのは、この事件が軍人だけによって起こされたものではなく、農民決死隊が加わっていた事であり、軍人の参加者達も、これらの陳述にあるように、その主要な動機として、農民の窮状をあげていたことである。
  • 「五・十五事件は、犬養首相と一人の警官の死の他に、一体何をもたらしたのだろうか。まず、国家改造運動の真意が、公判を通じて国民の前に明らかになった。血盟団の評価も変わった。国賊と呼ばれた小沼正や菱沼五郎も、国士と呼ばれるに至った。