50年経っても変わらない人の魅力の源泉と変化を遂げたコミュニケーション方法『コクリコ坂から』


先週の土曜日、TOHOシネマズ六本木ヒルズへ「コクリコ坂から」を観に行ってきた。

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映画『コクリコ坂から』公式サイト

そのさらに前の週には「ハリー・ポッターと死の秘宝 PART2」を観ていたので、2週連続で映画を観に行ったことになる。充実。僕は映画を観る事は好きなのだが、最近は中々時間が無かったので足が遠のいていた。実際には、ハリポタは土曜日の仕事終わりに19時から、コクリコ坂は同じく土曜日の朝9時からと、僕は土曜日の午前中はだいたい掃除やら洗濯やらで時間を潰してしまうのだが、行こうと思えばこうして時間を作る事ができるものだなと改めて考えた。そしてやはり、映画というものは作り手が一所懸命考え、多くの時間をかけ、伝えたい想いを映像化しているので、映画を観る事で考えさせられる事はとても多い。時間を作ってもっと観に行くべき。

今回観てきた「コクリコ坂から」は、本筋は「耳をすませば」を意識したような純粋なラブ・ストーリーで、主人公である小松崎海の高校生活の中での、風間俊との出会いから生まれる、日常の中のちょっとした冒険と変化を描いている。物語としては一貫したノスタルジックな雰囲気と、耳障り良く調和した音楽で、終始作品の世界の中にいるような気分で、楽しく観る事ができた。脚本はラブストーリーなので直接映画を観て欲しいのだが、ここでは「コクリコ坂から」という映画がぼくたちのコミュニケーション方法と表現手段、そして人の魅力という点において、当時と今を比べて変わるものと変わらないものということが非常に明確に描かれていたので、その点についてエントリを挙げる。


コクリコ坂から (単行本コミックス)

コクリコ坂から (単行本コミックス)

コンテンツ

  • コミュニケーション方法の変化
    • 舞台設定
    • 地域間コミュニティとオープンコミュニティ
  • 拡張された表現手段
    • クローズドな表現手段
    • 群衆の知恵の実現化
  • 変わらないものとは、魅力のある人とは

コミュニケーション方法の変化

舞台設定

コクリコ坂から」の舞台設定は1963年。和暦で言うと昭和38年である。時代背景が気になったので調べていたのだが、こんな記事があった。
1963年11月9日、大事故が連続した日本の「血の土曜日」|WIRED.jp
良くも悪くも、日本が工業化の道を歩み始めて、これからどんどん新しい技術が生まれて行くような時代であったからこそ、このような事故が起こったのだと思う。作中では、下宿屋の仕事をしている海の日常生活が描かれているが、米を土鍋に入れて、マッチでガスコンロに火を点けているシーンなどを見ると、調理であるとかそういった部分は、50年前からそこまで変わったようには見えなかった。ちなみに、作品の舞台は横浜である。海は父親が居た頃からの習慣で、毎朝帆船から見える様に旗揚げをするのだが、この海は横浜の海らしい。

地域間コミュニティとオープンコミュニティ

さて、そんな時代のコミュニケーションは、専らが地域間コミュニティである。人々は直接会い、話し、聴き、コミュニケーションを行う。勿論電話もするし、手紙も書く。しかし、電話はあくまでお互いが家にいる間での、時間の限定されたコミュニケーションであり、手紙には即時性は無く、書き、送るというタイムラグが発生する。
作中でのコミュニケーションの舞台は3つである。学校・カルチェラタン(クラブハウス)、コクリコ坂(海の住んでいる丘)。彼らはそこで、会い、会話をし、話を聞き、伝え、そして別れる。海と俊の接点も、その3つの場所でのみ展開される。彼らは同じ学校に通い、またカルチェラタンを通して校舎以外の場所での繋がりの機会も有している。しかし、それ以外の場所でにコミュニケーションを取るかと言えば、そうではない。あくまでも場所・空間を共有することが、コミュニケーションの大前提となっている時代である。接点はその場所に一緒にいる時間内で行われるため、彼らのコミュニケーションは、その場所限りのものとなる。それ以外は、自分の家での家族や下宿人達とのコミュニケーションである。

振り返って現代のコミュニケーションを考えてみたいと思う。2011年現在、ぼくたちのコミュニケーション方法は新たなフェーズを迎えていると言える。それは、IT技術とインターネットの普及に際してwebが全てのプラットフォームとなったweb2.0の時代を経て、web上でのソーシャルな繋がりを持つ様になった新しい時代である。以前の様にメールを使って知り合いとコンタクトをとるだけではなく、リアルでは繋がりの無い人と、web上からコミュニケーションを取ることが可能になった。もしも相手がプロフィールをwebに公開していれば、会う前から相手の趣味、好きな食べ物、好きな映画、行動範囲、友人関係が分かる。いまの日本で言えば、mixitwitterfacebookGoogle+などのSNSが良い例だである。しかも今はスマートフォンが進化したため、いつでも、どこでも、誰とでも、こうしたコミュニケーションをとることができるようになった
facebook創始者であるM・ザッカーバーグの言葉を引用する。

ソーシャルネットワークは現在、「転換点」にある。これまでソーシャルネットワークは人々の繋がりに関するものだった。
「人が繋がっているための新しい方法はこれだ」とか「どれだけの人が繋がっているか見てよ」とか。
人々はこの1〜2年、ソーシャルネットワークがどれほど広まるかという疑問を持っていました。
このようなチャプター(章)は、多かれ少なかれこの時点で終了した。
次の5年間のトレンドは、繋がりの数ではなく、その上で何を築くことができるかになる。
過去数年間がユーザーの伸びとアクティブユーザーについてなら、次の5年はそのような数値は関係なくなるだろう。」

彼が言うように、ソーシャルネットワークの時代も物凄いスピードで進化を遂げている。ARの技術により、セカイカメラのように場所にタグ付けをすることもできるようになった。位置情報の探索技術が進化し、その場に居る趣味の会う人とソーシャルウェブを通じてその場でコンタクトをとることもできる。foursquareやwondershakeなどは非常に未来を感じさせるサービスである。もはやコミュニケーションにおける場所の意味合いとは、一つのタグでしかなくなってきているのだ。
昭和38年に学校・カルチェラタン・コクリコ坂といった、場所・地域をコミュニケーションのプラットフォームとしていた時代から、コミュニケーションのプラットフォームはwebへ。海と俊のような淡い青春の物語も、これからはそうした新しい形のコミュニケーションになっていくと思う。コミュニケーション方法は大きな変遷を遂げたことを感じた。


facebook

facebook

拡張された表現手段

もう一点の変化は、表現手段の変化である。

クローズドな表現手段

コクリコ坂の世界に置ける表現手段がいくつか作中で描かれている。一つは、学生集会・パフォーマンスといった空間を利用して多くの聴衆に自らの主張を訴える方法。具体的には、カルチェラタンを解体させまいと、生徒会長である水沼と俊を中心とし、学生集会や反抗パフォーマンスが行われる。現在ではこんな事をする高校生は居ないのだろうけど、かつてはゲームやインターネットをする代わりに、こうして自分たちが世間に対して体を使って主張をすることが当時一番面白いことだったのかもしれない。もう一つは、週刊カルチェのガリ版印刷である。新聞部として自分たちの主張を世に出したい時、その手段としては手間をかけてガリ版を切るしかなかった。そして新聞部でもなければ、学生達は自分の主張を世に発信することができなかった。多くの人に自分を発信する。そうした意味で、昭和38年当時の表現・発信手段というのは、非常に限られたものであった。

群衆の知恵の実現化

翻って、現在、自分の表現手段には劇的な変化が訪れている。それは主には、web上での発信行為である。先ほど述べたソーシャルネットワーク上での発信行為も同じであり、主にはブログやSNSを利用した発信行為が主となる。これは、今では当然のことと考えられているが、当時であればまず有り得ないことであった。所謂「群衆の知恵」の実現化だが、今はコンテンツのクオリティを担保すれば、一概に権威ある者・影響力のある者だけが発言できるという時代ではなくなった。webテクノロジーを利用し、いつでも、どこでも、だれでも、自分の主張・想いを、webを使って全世界に発信できるようになったのである。webには地域の壁は無い。ガリ版は限られた枚数、限られた場所でしか配る事が出来ないが、ブログであれば信頼性の高い無料のクラウドサーバを利用して全世界へコンテンツを発信できる。カルチェラタンの取り壊し計画も、webで発信してその文化的価値が認められれば、また違った結果が得られたかもしれない。学生集会も同じであり、より影響力を持たせるために、今であればUstreamを使って世界に動画コンテンツを発信する事が出来る。昭和38年と現在では、webの力により、表現手段というものが劇的に変化した。


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変わらないもの

話題を反対の方向へ伸ばすが、これまでは当時と今で変化したものについて述べてきた。

  • コミュニケーション方法の変化
  • 拡張された表現手段

それでは、今と昔で変わらないものとして、コクリコ坂の中で描かれているものとは何か。
それは、

  • 人の魅力の源泉、すなわち、積み重ねたもの。

である

そしてそこから導き出される答えは一つ。

  • 意志が強く真っすぐに生きている人間は強い。

これである。こういう人間は、何もしなくても大衆の中に放り込まれると、それだけで目立つ。
作中では、カルチェラタン取り壊しに反対する対策としての、海の活躍がとても分かり易く描かれている。

元々海は下宿屋の世話人として、毎朝誰よりも早く起きて、花の水を変え、旗を揚げて、下宿人全員の食事を作るという生活をしている。食後は全員分の食器を片付け、それから学校に行く。そして学校が終われば彼女はまた下宿人達のために食材を買って帰り、夕食の準備を始める。高校生と世話人の両立を毎日きちんとこなすのは、まだ高校生である彼女にとっては、それだけで容易なことではない。高校生であるならば、色々と遊んだりしたいこともあるはず。それでも彼女はずっと真っすぐにその仕事を続けているのである。

そこには、自然と人間としての魅力が生まれる。その事を知らない他人からは見えなくても、それだけまっすぐ意思を持ち日々を過ごしている人間は、人としての魅力を漂わせるようになる。そして、その魅力は、何もせずとも現れ出る。例えば、カルチェラタンの掃除計画が良い例だる。取り壊し反対運動のために、カルチェラタンを掃除して文化価値を高める計画は、海のたった一言で始まる。簡単な事のように見えて、今までそれを口にした人間はいなかったのである。彼女が積み重ねてきたバックグラウンドから出た何気ない一言がきっかけとなり、全校の女子生徒が掃除へ参加し、最終的にはカルチェラタン移転計画の転換点となった。意思の強い人間の一言は、周りを巻き込んで大いなるムーヴメントを巻き起こす。

またもう一つの例として、理事長への直談判へ行くシーンがある。カルチェラタン中心メンバーである水沼と風間、彼らに加えて、メンバーとは何も関係のない海が一緒について行く事になるのである。そしてこれは生徒会長水沼の抜擢である。なぜ他にもたくさんの人間がいるにも関わらず、そのようなことが起こるのか。それが、意志が強く真っすぐ生きている人間の強みです。何をせずとも、彼らの様な人間は、これまでの人生で積み重ねてきたものが全ての行動に表れます。誰にも知られないながらも、毎日、高校生と下宿屋の管理人として、決して容易ではない自らの責務を欠かさずに実行してきた海には、それだけの人間としての魅力が備わるのである。そして、大衆の中に入っても、ただそれだけで目立つのである。

  • 積み重ねてきたものがある人間は自らを誇示する必要無く誰からも求められる。

ということである。


自助論

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