ぼくらの頭脳の鍛え方

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)

ぼくらの頭脳の鍛え方 (文春新書)


博識で教養がある人というのは、こういう人達なのかもしれない。昔に比べたら教養を身に付けてきたと自分では思っていたけれど、僕の知識なんてものはまだまだ浅はかだ。本を読んで専門知識を学んでみたり、人と話をして違う世界を覗いてみたり、インターネットで最先端の情報を仕入れてみたりしているけど、僕が見ている世界なんてものは、所詮表面的なものに過ぎないのだ。でもそのことを理解しているからこそ、僕は毎日新しい何かを求めて行動しているのだ。自分が目指しているのはインテリではないけれど、知識と教養は絶対に自分の武器になるのだ。


教養とは何かというのは、とても難しい質問だ。すぐに思いつくのは幅広い知識というフレーズだが、この程度はただの言い換えに過ぎない。それならば常識と言えばいいのだろうか。いや常識とは違う。常識というのは慣習法みたいなところがある。最低でも知っていなければならない、地域社会で生活していくために必要な決まりが常識だ。対して教養には決まりというイメージが無い。教養と聞くと僕はインテリを想像する。一般人が皆常識程度の知識を有しているとしたら、それを包含する多面的な知識が教養だ。常識が最低ラインだとしたら、教養はその上に線を引いている。しかし教養は常識と違って、身に付けていなければ社会生活で不便を感じたり、他人に不快な思いをさせたりという事が無い。教養を美徳とするのは、インテリかそれを目指す者だけだ。


教養を身に付けたければ、時間に淘汰に耐え抜いてきた古典を読めば良い。古典至上ではないが、ハズレを引く確立は低い。本書で紹介されている本は、大体がその条件に合う。そして僕はこのブックリストを見て、何度も名前を聞いたことのある本を、ほとんど読んだことが無いことを知った。それは何故かと考えたところ、単純に、内容と文章が自分にとって重いか重くないかの問題だと思った。要するに、頭を使って考えていないのだ。教養を身に付けるためには、古典を読み、頭を使って考えることが必要なのだ。自分は本当に頭を使っていないと思う。だからこれからは脳味噌を酷使して、教養を身に付けるのだ。