知性の構造

作者:西部邁
出版社:角川春樹事務所
発売日:2002/11/18
評価:★★★★☆

知性の構造 (ハルキ文庫)

知性の構造 (ハルキ文庫)

今週2冊目。


久しぶりに、自分が何を読んでいるのかわからないという感覚に陥った。というか、字面を追うスピードに、脳の理解がついていかなかった。本を読んで内容が理解できなかったのは学生の時にフーコー・コレクション以来だ。自分の知識レベルの低さが悔やまれる。
「知性の構造」は非常に高度で抽象的な思想・哲学書であり、今の僕がこの本を自分のものにするためには、図書館の閲覧室に行ってノートを取りながらでないとだめだなと思った。
キーワードを拾えば、知性の構造・真理への渇望・論理・学問・思想・総合知・マスメディア・言葉・伝統・表現・知識人・パラダイムといった感じだろうか。もはや自分でも良くわかっていなくて悔しい。これは必ず再読しようと思う。

感想


理解していないのに感想を書くなんて大変失礼なことだと思うが、自分のために記録を残したい。
とりあえず、著者の思考を余すところ無く文章に書き起こしたイメージ。思考の言語化が成功していると言っても良い。そして、哲学書系をほとんど読まない人間にとっては、拒否反応を起こしてもおかしくない内容。西部氏はどんな読者を想定してこの本を書いたのだろうか。


それから思ったのが、社会人になるとこの手の本は時間の問題で読み辛くなるということ。特に読書から得られるコストパフォーマンスを考えると、なおさらである。学生時代に出会いたかった。社会人が本を読むとしたら、実学系の本か小説のどちらかなんじゃないかと思う。思想系の本は研究者か学生の専売特許なのでは。

内容で印象に残ったところメモ

  • 感情によっては受容されない論理は遠からず発言力を失い、例えば学会といったような狭い場所に封じ込められ、そして感情に迎合する似非論理が世間を闊歩することになるのである。
  • 現代人はいわば「総合知」の欠落という病理に苛まれているのであり、それをほんの一時的にせよ治癒すべく、似非の総合知にすぎないマスコミ世論のまわりに群がるのだ。

世論・論理・マスメディア・学者の関係性。現代人と知性。

「言葉は、外面性(顕在化)と時間性(差異性)とからなる象限において、表現的な意味機能を発揮する」

言葉とは何か。表現の矛盾。葛藤・逆理・二律背反。

伝統とは綱渡りにおける平衡棒のようなものであり、ざっくり言えばそれはしょせん一本の棒切れに過ぎない。しかし表現という葛藤に満ちた営みはアクロバティックの演技にも似たものであり、その綱渡りにおいては、一本の棒切れが平衡感覚の維持にとっては不可欠のものとなる。

表現と伝統。表現の実践においては伝統が有効。

個人主義が個人的であるのは公的には個人的に振舞うからであり、集団主義が集団的であるのは公的には集団的に振舞うからだ、ということになる。逆に言うと、私的には、個人主義はより強く集団的であり集団主義はより強く個人的である。

個人主義集団主義。日本人。

知識とは、ある意味で、政治である。政治の本質は「表現によって他者の言動に影響を与えること」にあるのであり、そうであるならば知識人の表現活動もまた、他者の認識や行為に影響を与えずにはおかないのであるから、政治的たらざるを得ないのである。

知識=政治。政治とは。知識とは。

知識人はどこにいるのか、それがわからなくては知識人との戦いも空文句に終わる。しかし知識人の所在は今や明白である。彼らはマスメディアの世界―マスエデュケーション(大衆教育)のことも含めて―におり、そしてマスメディアの世界が現代世界の(ほとんど)全てなのであるから、知識人は世界の随所に偏在していることになる。

知識人はマスメディアの世界に。表現の場はマスメディア。

追記

会社から寸志を頂いたので本を買った。あとは夏に向けてワイシャツが欲しい。
スーツも欲しいのだけど、果たして夏にジャケットを着るのかという問題があり、悩む。
あとは欲しいCDがあるのでそれを買うか、もののけ姫のDVDがずっと欲しかったので、それを買おうか。
残ったお金は飲み代に使って、さらに残ったら投資資金にするつもり。